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聖ルポ司教      St. Lupus E.                             記念日 7月 28日


 5世紀の有名なガリア(フランス地方)の詩人で、後に司祭となり司教となった聖シドニウス・アポリナリスは、同時代のトロアの司教聖ルポの事を「父等の父、司教等の司教、ガリア教会の善き牧者等の首領、道徳の模範、真理の柱、天主の友、衆人の天主への代願者」と、口を極めて激賞している。この讃辞だけでも、聖ルポがいかに偉大な完徳の士であったか想像することが出来ようが、幸いにもその上当時の史家は比較的詳細に彼の生涯を記録に留めているのである。
 それによればルポはツール市の、ある名望家の子と生まれ、幼にして洗礼を授けられ、教育も十分に受けた。青年時代は殊に弁論を好み、ために一時弁護士を業としていたこともあった。その頃彼はアルルの司教ヒラリオの妹で、信仰の甚だ厚いピメニオラという婦人を妻に迎え、暫くは共に世間に在りながらも修道者のように敬虔な生活を送ったが、後二人は談合の上、ルポはルランなる名高いベネディクト大修道院に、ピメニオラは或る修道院に入ることとした。
 何しろ在俗の折から修徳に異常な熱心を示したルポのことゆえ、その修士となって後の聖なる努力精進には全く驚嘆すべきものがあった。修道者でも普通の人ならその克己禁欲の精神を衰えぬようにするには絶えず鞭撻する必要がある。しかるに彼に対しては却って過度の苦行に身を損なうことがないように院長が常に忠告せねばならなかったというから、以てその修道振りの一班も伺われる次第である。
 ルポは二、三枚の板を寝台の代わりとして用い、昼夜の如く祈り、しばしば眠らず、週に二、三度は全く断食し、我欲を制して専ら天主に仕えた。されば彼の聖徳の聞こえは漸う天下に高く、トロアの司教ウルソが没するや司教区の信徒は彼をその後継者と仰ぐべく頻りに運動した位であった。
 もちろん謙遜なルポはかかる重職に堪えずとして再三辞退した。しかし請願者の熱心は少しも減ぜぬばかりか、他の司教達のすすめもあり、ルラン修院長の命令さえ下ったので、結局はどうしてもトロアの司教就任方を受諾せぬ訳にはゆかなくなった。
 とはいえそうした高位に昇ってからも、彼は決してその厳格な日常の生活を改めようとはしなかった。そして衆人に口を以て説いた所は必ず行為を以て模範を示した。これは当時にあって最も必要なことであった。何となればその頃は一方にイギリスのベネディクト会の一修士ベラジオが唱え出した異端説が勢いを得て世を迷わせていたし、他方には全欧州を席巻したフン族(蒙古人)の長アッチラが部下を率いてガリアの地にも侵入掠奪し、人心荒廃の極みに達していたからである。
 このペラジオの邪説というのは、原罪と聖寵の必要とを否定し、人間は独力で善を行い聖人となり得ると説くものであったが、聖ルポはその誤謬を明白に指摘し、また世の人々がこれに惑わされぬよう、惑わされた者は早く真理に立ち帰るよう、祈りと苦行とを以て天主に切願し聖教教勢の回復に努めた。それから彼は教皇の命に従い、司教ジェルマノを伴い英国に赴き、或いは説教し、或いは奇蹟を行い、ついにペラジオ異端の根源地であった同国をも、首尾よくその誤謬から救うことが出来たのであった。
 なお、これは確証ある史実ではないが、信ずるに足る伝説によれば、ルポはフン族来寇の時、司教服に威儀を正し、数多の司教達を従えて敵将アッチラを出迎え「貴方は泰西諸国に下された天主の鞭を以て自任して居られるが、もしそれが真実なれば、天主の思し召しに背くようなことは決してしてはなりません」と厳かに誡め、己が教区トロアをその侵略から救ったとの事である。アッチラがローマ人及びゴート人の連合軍に敗れてその国蒙古へ逃げ帰ったのは、それから間もないことであった。
 さて、天主の為聖会の為数々の功労を立て、52年の長きにわたり主に託された子羊の群を牧して遺憾のなかったルポ司教は、478年その報いを受くべくこの世を去ったが、その最期はまことに聖人にふさわしい安らかなものであったという。

教訓

 我等は聖ルポが名誉、財産、何不足ない家庭生活を棄てて、修道克己の修道生活を選んだ聖なる決心に感嘆を禁じ得ないが、これは即ち自分の小なる家庭を犠牲に供してイエズス・キリストの大なる家庭の為に働き、善き牧者なる主の如く衆人の為に己が一生を献げたのである。我等ももっと協同的事業や使徒的活動を、個人的のそれより尊重するようにならねばならぬ。